八重の桜と鳥羽・伏見の戦い

まだまだ、つづく八重の桜から目が離せません

 

八重の桜

 

最新の大河ドラマ、「八重の桜」では、会津藩に生まれた「山中八重」、のちの「新島八重」が主人公に据えられた展開を見せています。
現在も放映中のこのドラマですが、会津藩が舞台になったこともあり、鳥羽・伏見の戦いや、戊辰戦争などもしっかりと絡んできます。

 

そこで、ここで一度その二つの戦いと戦争についておさらいをしておきましょう。戊辰戦争はいわば、薩摩勢力と旧幕府勢力の激突です。

 

攘夷派の中心であった薩長が結託して討幕を目指す中、当時の将軍であった徳川慶喜は武力衝突を避けつつ主君の位置を譲らないようにするため、大政奉還を行いました。
これによって「討幕」の名目を向こうから失わせつつ、新体制の中でも国家首班に居座るという目論見を成功させつつありましたが、ここで薩摩側から「王政復古の大号令」が出され、徳川慶喜に辞官納地が命令されました。

 

これを不可能と返答しつつも連絡を絶った慶喜に対し、薩摩側は破壊工作を連続で決行。
これに対して「討薩」の勢いが高まったことから、戊辰戦争の緒戦となる「鳥羽・伏見の戦い」が始まったわけです。

 

鳥羽・伏見の戦いはそもそも旧幕府側が劣勢であり、かつ徳川慶喜がひそかに江戸へ退却していたため、頭を失った軍勢は散り散りに退却してしまいました。

 

大敗を喫したのち、ここから上野戦争や北陸戦争、北越戦争、会津戦争と続き、最後は箱館戦争へとつながっていくわけです。ちなみに「八重の桜」に直接関係してくるのは、この会津戦争です。ここで八重は、新撰組ともかかわりを持っていくわけですね。

 

 

 

この鳥羽伏見の戦い周辺の出来事は

 

八重の桜 鳥羽伏見の戦い

 

八重の兄、覚馬(かくま)は鳥羽・伏見の戦いで薩摩軍に捕まる。その時に覚馬は処刑されたと伝えられた、八重、妻のうらは、覚馬の生存は一度諦めましたが籠城戦のあと、京都に覚馬の生存が確認され家族一同で京都に向かうことになったが、そのとき妻のうらだけが行くことを拒みました。娘のみねを、八重に託し、うらは一人会津に残りました。